ダーシャのブログ

ゆるゆる生きてていいじゃない

お悩み相談室

毎月一日だけ、街の片隅でひっそりと開かれるお店がありました。それは陽気な麻酔科医と気の強い看護師が開くお悩み相談室でした。そこには様々な悩みを抱えた、少し変な人が訪れます。そして今日も一人のお客がやってきました。

「ここが噂の……なんかパッとしないお店ね。」

狭い通路を抜けた先には古びた一軒の店があった。本当にここで合っているのだろうかと疑問に思いながら、一人の女は店のドアを開け中へと入って行った。

「いらっしゃい。こちらへどうぞ。」

客の来店を告げるチャイムが鳴り、奥の部屋の方から男の声が聞こえた。女は玄関で靴をスリッパに履き替えると、狭い廊下を進んでいった。途中、待合室かと思われる部屋の前を通り過ぎた。案内された部屋には椅子が一つ用意されており、女はそこに座った。

部屋の中は病院の診察室と大して変わらない。椅子と机の上のパソコン、ベッドがある程度だった。部屋には男の医師と女の看護師の二人が待っていて、女が椅子に座ると同時に男の医師は口を開いた。

「陽気な麻酔科医と気の強い看護師が開くお悩み相談室へようこそ。初診の方ですね。お名前を伺ってもよろしいですか。プライバシー保護のため、匿名でも構いません。」

「匿名でお願いします。」

「分かりました。では、ご職業の方は?」

「作家をやっています。」

「それは凄いですね。では、この診察の間のみ作家さんと呼ばせて頂いてもよろしいですか。」

「構いません。」

作家は快く承諾した。

「私達の事は、麻酔科医、看護師とお呼び下さい。また、病院の問診のような話し方ですと、緊張される方が多くいらっしゃいますので、診察の間は口調を崩させていただきます。」

「大丈夫です、」

「ありがとうございます。それではお悩みをお伺いします。作家さんも口調を崩して頂いて結構ですよ。」

麻酔科医は作家にそう言った。作家は少し息を吸った後に話し出した。

推理小説を書いているんだけど、ネタに困っちゃって……噂で麻酔科医が開くお悩み相談室があると聞いたから、麻酔薬について教えて貰おうと思って来たの。」

「へえ、そうだったの。了解しました。」

そう言うと麻酔科医は隣にいた看護師に一冊のノートを持ってこさせた。

推理小説には吸入麻酔薬を使った犯罪が多く登場するよね。吸入麻酔薬っていうのはね。んーと、某探偵のアニメで犯人が相手の口元をハンカチで覆ってるでしょ?あんな感じ。吸入麻酔薬は、吸うか嗅ぐことで麻酔するけど、それとは別に注射で麻酔する静脈麻酔薬があるんだ。現在はほとんど静脈麻酔薬が使われているよ。」

「吸入麻酔薬と静脈麻酔薬の二種類があるのね。」

「うん。推理小説ではエーテルっていう麻酔薬がよく使われているよ。聞いたことある?」

「いくつかの作品でその単語が出てきたわ。」

作家は少し自慢げに答えた。

「沢山の作家がエーテルを使ってるよね。作家さんが自慢げになるのも分かるよ。でも、これ間違いだと僕は思うんだよ。」

麻酔科医はしてやったりといったような嬉しそうな顔をした。作家は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。

エーテルは麻酔状態になるまで時間が掛かるから、犯罪には向いていない。また臭いの強い薬品だから、吸わせようとしても咳が出て上手く吸ってくれないんだ。周囲の人に気付かれてしまう危険性もある。そして人を眠らせるには大量のエーテルが必要で、ハンカチで顔を覆ったぐらいじゃ、エーテルが気化熱によって温度が下がって気体にならなくなるから不可能だ。」

「じゃあ、どうすればいいのよ。」

ケタミンをお勧めする。作用時間が二十分から三十分でいいぐらいだし、一瞬の筋肉注射で確実に効果を発揮するからね。ケタミンは他の麻酔薬と違って、脳の働きを強くするんだ。全身が刺激されてアドレナリンが出るから血圧が上がって脈も速くなる。打たれた人は眠ったようには見えない。目をキョロキョロさせたり、体をもぞもぞ動かすんだよ。」

「それは面白い薬ね。」

「どうする。一度打ってみる?何事も体験っていうじゃない。」

「えっ、興味はあるけど……大丈夫なの?その、法とか、色々と。」

「大丈夫、大丈夫。僕もよく自分に打って試してるし。言わなきゃばれないよ。」

麻酔科医は軽快に笑った。看護師は少し苦笑いをしていた。作家はそれじゃあ、と了承して後ろのベッドに寝転び、麻酔を受けた。

「あ、おはよう。作家さん。これ、作家さんが眠っていた時のビデオ。」

ゆっくりとベッドから起き上がった作家に対して麻酔科医は話しかけた。ビデオを見ると作家は驚いていた。

「本当だわ。目がキョロキョロしてるわね。」

「それで、どうだったの。眠っている間になんか変な夢でも見たかい。」

「そうね……頭がボーっとして、色が沢山ある楽しい夢を見ていたような気がするわ。」

「楽しい夢だったんだね。」

麻酔科医は面白そうに笑って言った。作家は不思議そうにしている。

「いや、多くの大人の患者はケタミンを使うと悪夢を見るらしいんだ。そして、子供はというとなぜか楽しい夢を見る。大人なのに意外だなと思ってさ。」

「麻酔では麻酔薬のほかに筋弛緩薬を使用するんだ。その代表がクラーレで、作用すると筋肉が収縮しなくなり、とても柔らかくなる。クラーレには意識を無くす効果はない。また、消化器官からは吸収されないんだ。だから、アメリカの先住民が矢の先にクラーレを塗って狩りをしていたらしいよ。」

「天然に存在する物質なのね。」

「そう。その他にも、サクシニルコリンっていう筋弛緩薬があるんだけどこれが凄いんだよ。静脈に注射すると四十秒で作用が現れて五分で切れるんだ。サクシニルコリンはコリンとサクシニル酸(コハク酸)二つが結合したもので、血液中にはコリンエステラーゼっていうサクシニルコリンを分解する強力な酵素があるから作用が短いんだ。ほとんどの麻酔薬や筋弛緩薬は普通肝臓で分解されるか腎臓から排泄されるんだけど、サクシニルコリンのように血液で直接分解されるのは珍しいんだよ。コリンエステラーゼの作用は死んでも継続するし、分解された後のコハク酸とコリンも元から身体の中にある物質だから、サクシニルコリンから出来たかを判別できないんだ。」

「じゃあ、犯罪に利用してもばれないんじゃないの。」

「僕もそう思う。でも、実行に移すのは止めておくべきだよ。使うとしても、小説のネタ程度だね。」

「今日はありがとうございました。お陰様で良い作品が書けそうです。」

「お役に立てたようで何よりです。いつもは本当に悩んでいる人がくるので、自分の知識を人に教えるというのは楽しい気分転換になりました。こちらこそありがとうございました。」

作家は麻酔科医にお礼を言ったあと、部屋を退出した。その後、看護師に料金を支払い、来た時と同じように狭い廊下を通って外に出た。

それからしばらくして、麻酔科医のもとへ警察の方からとある事件の死因を調査して欲しいと依頼があった。事件の状況から麻酔の使用が疑われたようである。麻酔科医は死体解剖に参加したところ、見事麻酔使用の証拠をつかむことが出来た。そして、容疑者は捕まることとなった。

その後、麻酔科医は事件で捕まった犯人のもとへ、麻酔を使った事件だからいい勉強になるという理由で面会に訪れた。麻酔科医が面会室に先に入ってからしばらくすると、囚人が入ってきた。

「うわあ、これは驚いた。作家さんじゃない。」

「な、なんであんたがいるのよ。」

作家も麻酔科医もひどく驚いている。

「そっか。作家さん犯罪に利用しちゃったんだんね。」

「確かにそうだわ。でも、なぜ麻酔科医がいるのよ。あの薬は完全犯罪が可能なんじゃなかったの?」

作家は酷く動揺して一気にまくし立てた。麻酔科医は笑いながら答える。

「まあ、落ち着きなよ。僕が知っている理由を教えようか。僕は本業が麻酔科医だ。お悩み相談室は趣味だよ。そして、作家さんが起こした事件の死体解剖に立ち会ったんだ。だから、知っている。そして……」

麻酔科医はそこで言葉を止めて、作家の方をじっと見つめた。

「何よ。私の顔になんかついてるの。」

「うーん、そうだね。前回の続きをしよう。確かに僕は、サクシニルコリンは犯罪に使用できるかもと言った。完全犯罪が可能とは一言も言ってないよ。でもね、昔に作家さんと同じように実際に犯罪に利用した医師がアメリカでいたんだけど、捕まったんだよね。ここからが重要だよ。実はね、サクシニルコリンは二つのコリンとコハク酸に分解される前の段階でコリンが一つだけ取れたサクシニルモノコリンという物質になるんだ。これは天然には存在しないから、見つかればサクシニルコリンを使用したと分かるってことだね。その時の事件の状況からサクシニルコリンの使用が疑われたから調べてみると、脳の組織からサクシニルモノコリンが見つかったんだ。脳の組織では他と比べて分解の作用が遅いようだよ。作家さんの場合もこの事件とまったく同じだったから、面白かったよ。次にやる時は、その点に気を付けたら上手くいけるかもしれないね。」

「もうやらないわよ、そんなこと……」

作家はぐったりとうなだれるように頭を垂れた。

「作家さんはお悩み相談室の久しぶりのまともなお客さんだと思ってたけど、やっぱり変なお客さんだったね。小説のネタを実際の犯罪に用いるなんてさ。まあまあ作家さん、そんな気を落とさずに。外人殺して人肉食べた作家だっているんだから。出所したら、僕のお悩み相談室にまた来てよ。女子刑務所の話とか聞きたいからさ。待ってるからね。」

「はあ、もういい……」

麻酔科医はアハハと面白そうに笑っていた。その後、面会終了時刻まで作家はほとんど喋ることなく、麻酔科医が一人でたわいもない話をしゃべり続けただけだった。

毎月一日だけ、街の片隅でひっそりと開かれるお店がありました。それは陽気な麻酔科医と気の強い看護師が開くお悩み相談室でした。そこには様々な悩みを抱えた、少し変な人が訪れます。そして今日も一人のお客がやってきました。

「いらっしゃい。こちらへどうぞ。」